縁切稲荷(門田稲荷)/ 下野国一社八幡宮
天喜4年(1056)八幡太郎義家の創建と伝えられる八幡宮。この境内のすぐ西側に「縁切稲荷」で知られた「門田稲荷」がある。いつごろから「縁切稲荷」と呼ばれるようになったかはわからないが、今も残っている絵馬を観ると相当ご利益があったことがうかがえる。
- 住所:足利市八幡町387
天喜4年(1056)八幡太郎義家の創建と伝えられる八幡宮。この境内のすぐ西側に「縁切稲荷」で知られた「門田稲荷」がある。いつごろから「縁切稲荷」と呼ばれるようになったかはわからないが、今も残っている絵馬を観ると相当ご利益があったことがうかがえる。
足利赤十字病院のすぐ北側にある神社で、地元の人には「大手さま」とも呼ばれる。昔から手先の技術を上げたいという人や手に関する病気・怪我、さらに字が上手に書けるようになどという人たちに「手の神様」として信仰された。「手首」や「手形」の絵馬をあげる風習がある。
足利学校から東へ約3.5㎞にある長林寺は明応8年(1499)に常陸国で創建。その後戦乱にあい、上杉謙信によって現在地に再建された。「たらちねの松」「救いの井戸」「天狗のねじり杉」「天狗の遊び松」「猿が池と権現池」ほかの伝説が現在も残されている。
平将門が朝廷にそむいておこした「天慶の乱」に対して討伐に向かった藤原秀郷軍は大苦戦。この時に将門調伏の勅命を受けた世尊寺の常祐法印が昼夜ぶっ通しで祈った7日目の未明、秀郷が将門の首を打ち落とした。この功により勅命で寺名を鶏足寺に改めたという。
小俣町の小さな坂の途中にある恵性院に残る悲恋の伝説。昔、鶏足寺の末寺明月院に修行に来ていた信光という美少年が吹く笛の音とそれに合わせるように琴の音。寺の西側に住む大川家の娘「菊江」の琴であった。やがて二人は愛し合うようになったが…。「稚児の碑」が境内に今も残っている。
大同3年(808)、50日間鳴動し続けた鳴動山(現在の石尊山)を確認に来た円仁(後の慈覚大師/当時は小野寺・現在は岩船)が岩山に登り始めると目の前の大岩が鳴動した。した。するとそばにいた猿たちがその岩を谷へ引き落とした。その時美しい声と石仏に文字が浮かび出て・・・。
足利義兼によって創建されたといわれる中世の寺院遺跡。極楽浄土の世界をあらわした庭園をもつ寺院であることがわかり、国史跡に指定された。
通称織姫山と呼ばれる機神山。山頂の古墳は前方後円墳で6世紀中ごろものと思われる。ここから見下ろす町並みと春の桜が印象的である。